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私の「転機」  日本キャリア・コンサルタント協会 三谷晃一理事長

三谷 晃一(日本キャリア・コンサルタント協会 理事長)

日本企業、外資系企業で人事、広報部門などを担当。現在は、キャリアコンサルタントとして、主としてハローワークで活躍。サッカーが好きで、浦和レッズのファン。

インタビュー担当:上坂浩史、片山俊子 書記:一言映子

三谷晃一理事長(日本キャリア・コンサルタント協会)
三谷晃一理事長(日本キャリア・コンサルタント協会)

中学高校時代の体験が人生の基礎に


-こんにちは。今日は人生の「転機」を中心に、お話をお聞かせください。


70年以上生きてきて、いろいろあったね。その中で、「平和の大切さ」を一番に訴えたい。私は中国大陸で生まれ、幼いころに母親に背負われて、日本に引き揚げてきた。物心が付いたころは、北陸石川県山中温泉に住んでたんだけど、小学生のときに兵庫県尼崎市塚口に引っ越してね。

中学校は西宮市にある大学の付属中学へ入った。「よっしゃー!エスカレーターに乗れた!」これでラクできると思ったね。ミッション系の学校で、mastery for service、奉仕するために勉強するという教育方針だった。とても大切な考え方を学んだね。

中学校3年生の秋、また父親の転勤で、今度は広島市へ。高校は、浅野藩の藩校だった学校へ通った。浅野藩は、あの赤穂浪士の「浅野」本家。儒教で質実剛健の精神、しかも男子校。中学校とのあまりの違いに、カルチャーショックだった。


-高校生のときですから、戦後まだ10数年くらいですね。戦争の爪痕がまだまだ残っていたのではないでしょうか。


広島はね、被爆した人がたくさんいてね。夏に友人の家に遊びに行くと、扇風機でしょ、大人の男の人なんかがシャツ一枚でいると、ケロイドが見えてね。最初はね、ドキッとした。原爆の熱線で皮膚がただれるんだね、そういうのを目の当たりにした。

原爆ってこわいな、心底そう思った。放射能は怖い。目に見えない。戦争は絶対に避けなければいけないと骨身にしみた。平和の大切さを痛感したね。

被爆した友人も多かった。白血病で亡くなった友人もいる。彼が元気に生きていたら、本当にそう思う。勉強も体育も、一緒に普通にやってたんだよ。ところが、ある日突然、学校に来なくなる。どうしたんだ、という話になり、広島赤十字病院(専門的な病院)に入院していることがわかった。見舞いに行くと、髪の毛が抜けていてね。当時はかつらなんてないからね。1年くらいで亡くなった。早いんだよね。

-中学校でのキリスト教の精神と広島での体験が、三谷さんの人生のベースだと感じました。


私もそう思う。平和の大切さ。それから、中学校で学んだmastery for service。それらをミックスして、今の自分があるんだと思う。立身出世やお金儲けでなく、皆さんのお役に立ちたいというのがベースにある。

大学紛争の中で


-その後はどうされたのですか?


大学は東京でね。ちょうど大学紛争が始まったころだったね。私自身は、これからは国際社会と交わらなければいけないと思い、経済のクラブに入った。真面目なクラブだったね、部室は汚かったけど(笑)。大学祭のとき、「人身御供」にされて委員長をやった。ところが、重要な役職は政治思想の強い人たちが占めていた。そんなとき、大学が大幅に授業料を値上げするという話が聞こえてきた。反対のために、全学共闘会議を立ち上げた。

インタビュー中の三谷さん
インタビュー中の三谷さん

-授業料の値上げは、三谷さんご自身も反対だったのですか?


反対でした。自分は関係ないけど、これから入ってくる人が入りにくくなるというのはいけないと思った。それで、全学ストを150日間やった。机・椅子を校舎の正面玄関に持ち出して、針金で結んでバリケードを作った。

関係ない人たちはもっぱら麻雀、授業がないからレポート出すだけでラクチンと喜ばれた。でも、当事者は大変だったんだよ(笑)。私自身は、ストをどう収めようか、いつも頭を悩ましていた。「革命を起こす。権力と対決する。」と言ってた人たちもいてね。もう、びっくりした。自分の考えとは違う。キリスト教の精神とも違う。右見て左見て、いろいろな情勢を見た上で、どこで妥協するかを考えることは大切だと学んだね。結局、除籍された人たちもいてね。私も除籍の候補だったけど、何の処分も受けなかった。

-どうして処分を受けなかったと思いますか?


大学と団体交渉をしていて、私はいつも「どこかで妥協をしなくてはいけない」、「暴力は絶対にいけない、話し合いで解決しましょう」などと発言していたからね。大学は僕の発言を見ていたのだと思う。私の根底には、「けんかが嫌い」がある。大学紛争でも懲りた。あの1年間、時間を空費した、空回りしたなと感じている。

あと、そのころね、アルバイトで下宿の大家さんの息子さんの家庭教師をしていた。大家さんは、大学の経理課長だった。ストの間、ぼくら学生は大学の総長室で寝泊まりしてたんだけど、そこに大家さんが訪ねてきてね。「子どもが高校受験で大変だから、教えてもらわないと困る。」そう言って、私を大学の外に連れ出したんだよ。私も、金づるがなくなると困るので、ついていった(笑)。その夜、大学に機動隊が突入した。大家さん、知っていて、助けてくれた。恩人だね。息子さんは、翌年に大学付属高等学院に合格、少し恩返しができたかな。

――――――

よく聴いて、よく話し合って

-卒業後はどうされたのですか?


大学紛争のため就職は苦労したけど、日本企業で人事の仕事を行い、30代のときに外資系の会社に移った。外資系では人事・広報の仕事をした。いい勉強になったね。日本流にアレンジすれば使えるノウハウがいっぱいあった。同一労働同一賃金、女性がいきいきと働いているなど。アメリカ本社の管理職の半分は女性でしたよ。

その後、キャリアコンサルタントに出会って、今日に至っている。キャリアコンサルタントとして、色々な人と出会えて、本当によかった。それまでは、会社のタテ組織の中で生きていた。服が縦糸と横糸でできているように、私たちの人生を実り豊かにするのは、縦糸と横糸みたいに色々な考えの人と交わっていくことで素敵な服が出来上がるのだな、と思うんです。

三谷理事長(中央)と上坂浩史、片山俊子
三谷理事長(中央)と上坂浩史、片山俊子

-これから、何をしたいと思われていますか?


平和の大切さを伝え、男女共同参画社会の実現に貢献したいと思っている。立場と役割を得ることによって、人は成長するんですよね。男性、女性は関係なく、本人の柔軟性、自己革新性、熱意、やる気が大切です。

そのために、基礎的なことだけど、相手の話をよく聴いて、よく話し合ってね、解決策を探っていく。平和のことだけでなくて、仕事でも家庭でもみんなできることから、話し合いの輪を広げていく、ということを大切にしていきたい。

 

-今日はありがとうございました。 

 

「私の転機」というテーマで、色々な方のインタビューをこれから掲載します。

担当:日本キャリア・コンサルタント協会 コンテンツ制作プロジェクト:上坂浩史、一言映子、片山俊子(順不同)

プロジェクトメンバーが交代でインタビュー、書記を実施しています。手づくりのインタビュー記事、お楽しみに!!